Chris Cunningham :Rubber Johnny

ラバー・ジョニー [DVD]

ラバー・ジョニー [DVD]

以前にも書いたクリス・カニンガムの「ラバー・ジョニー」見た
本当は本に載ってるような尻と顔をあわせた様なヤツ、そいつもビヨヨ〜ンと動かしたかったんだろう…
それでも相当インパクトのある作品には違いないんだけれど、エフェクトを学んでいて気がついたら一年経っていた、と言っている事などを考えると、カニンガムの頭の中にはもっと刺激的なヴィジョンがあったのだろう
FX技術の進歩は新しい大作映画なんかが世に出るたびに喧伝されるが、それでも全然不十分って作家が居るというのは頼もしい限りだ


カニンガムのインタビューには
「どこまで速くしたら、意味をなさなくなるのか、つまりゴミになってしまうのか試してみたかった」とか
「解剖学的構造と人体の関係に、僕は惹きつけられて止まない」
などとある
それは映像作家としてこの人が如何に真剣に取り組んでいるかをあらわすものだと思う
自分が就職したのはニュースの特集コーナーや旅番組を作る制作会社で、入社したての最初の仕事でVX2000やPD150みたいなカメラをホラよっと渡される今考えるととんでもない環境だった
お花見の取材で、タイトスカートのOLさんグループが「顔は写さないで」というので、首から下だけを写していた
後に撮れた映像を見てもらうと「こんなもんエロ過ぎて使えるかッ!」と怒られた事を思い出す
TVを見ていると、基本、人の目の位置は画面を縦に3分割する2本の横線の、上の一本目の位置に目が来るようにするようにするとか、イマジナリーラインを超えないとか、がんじがらめと言えるくらい沢山あるルールが大体しっかり守られているのが判る
そういったルールを守ることで場面の奥行きや、2人以上の人間がフレームに入っている時なら背の高さとか、どちらの人物に意味的な焦点が合っているかとかの感覚的に重要な情報をさりげなく見る者に伝える事が出来る
基本のポジションからずらす事で、威圧感や反対に卑小な感じを与えたりも出来て表現の幅は広がるわけだけれど、逆に言えば、基本的な安定した配置に視聴者が慣らされている以上、それから外れてしまうという事はその違いによる何かしらの意味を見る側に与えてしまう(目の位置が低ければその人は背が低いのかなとか…)
映像を撮る側はそういった意味上のつながりから開放されない
あらゆるカットに意味が生じる
それによって流れるようなカットのつながりを生む事も出来るし、また、似たような映像が溢れかえる事にもなる
カニンガムが言っているのは、そういったものから如何に開放されるかということ
みんなが映像に囲まれて暮らしている今のような環境で、一番難しいチャレンジをするって事だろう


カニンガムが言っていた、どこから意味をなさなくなるか、とか解剖学的〜みたいな問題にズバリ立ち向かった作品↓